進化とは自発的なもの
 もうすでにこのエッセンスが鉱物界から植物界そして動物界、人間にまで進化してきた、そのお話をしてきました(詳細は「魂の起源とその表現」を参照)。そして動物を拘束する法則、人間を拘束する法則にも違いがあります。すなわち、動物が知性を開発することはありません。知性なのではなく、本能によって行動し、考えます。そして霊も集団霊で人間のように個別の霊ではなく、集団霊です。ですから、動物は理性的に考えるのではありません。また動物は声を発することはできますけれども、言葉を発音することはできません。しかし人間は理性をもっています。また個別の霊ももっています。そしてまた破壊することも創造することもできる言葉をもっています。そして知性の原理をもっています。そして自由をもっています。
 この自由という神聖な原理ゆえに人間の段階に至ったからには進化または退化を自由に選ぶことができるのです。ですから、多くの鉱物界を超越するほどの素晴らしい名誉を与えられた人間の段階、それは私たちが自ら自発的に進化を選び、そしてそのために援助とするために与えられたものです。なぜならば、進化は強制的なものでは決してないからです。それは皆さんの自分自身の意志によるものなのです。しかし、このような高い世界を望む人々は大変数が少ないのです。
 たとえば、ある時期開催したノーシス講座の最初の日には150人位の人々が集まりました。2回目には125人位になりました。なぜならば最初は好奇心でやってくる人々が多いからです。ですから、自分自身の精神的な進歩を目指すのではありません。ただ好奇心でやってきます。その次の回には100人位になりました。というのは、多くの人々が現実を見ることは厳しいことである、ということを自覚し始めるからです。ですから、自分が愛してきたたくさんの価値というものが、実は何の価値もないものになって崩れていってしまうのではないか、という不安を感じ始めます。私たちの唯物主義やまた官能主義もここに来ると崩れてしまう、と感じ始めます。そうすると、他の人にそこに触って欲しくない、もうそこに行くのはやめよう、と思います。そしてその講座が終わる頃には70人位になりました。3ヶ月でです。これは選択の法則というのがありますけれども、自発的なものなのです。
 ですから、皆さん自身が神聖な原理である自由というものを与えられています。すなわち、進歩をしたり、また進化をするということを強制するということはできません。しかし、進化をしないのであれば、退化は余儀なくされます。なぜならば、この法には二つの極地があるからです。もし愛があれば憎悪を排除することができます。愛さないのなら憎むことになります。また謙虚ならば虚栄心はありません。しかし虚栄心で充ちているのならば、謙虚さは微塵もありません。このように自発的なものです。ですから、私たちの人生の一分一分を前進しないのならば後退しているということになります。(進化のための努力を何もしないのであれば、以前と同じで変わらないというのではなく、それは退化していることになります)

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