エゴの位置づけ
 ここでは私たち人間におけるエゴの位置づけについて考えてみたいと思います。もうすでに何度かお話してきましたように、私たちはこの魂、霊、肉体というものから成っています。そうすると一人の人間を形成する最も基礎的な要素はこの魂、霊、肉体ですけれど、それ以外にも、エゴと運命というものが付属してきます。それぞれのものが、それなりの役割をもっています。ですから不要に与えられているのでは決してありません。この宇宙は完全だからです。いかにこの三次元的な機械的な宇宙の動きであるとしても、この神聖な次元での完全さには変わりありません。右の図は魂、霊、肉体、運命、エゴの関係を図解したものです。 魂、霊、肉体、運命、エゴの関係


 私たちの魂は神聖な起源をもちます。私たちが持っているものの中で最も貴重なものです。一人一人の人間が何らかの価値を持っているのならば、それは魂の価値です。それは私たちの中で最も神聖なものだからです。そして私たちの知性でもあるからです。そして純粋な愛でもあるからです。そして善であり、幸福です。叡智です。ですから、このような神聖なものをこの世から取り去ってしまったならば、残るものは全くごみのような存在です。ですから、これが私たちの持っている最も貴重な神聖なものです。


 そしてこの魂と肉体を中和させるその役割をもつものが、この霊でありサイキス(心理)です。そしてこの魂と肉体のちょうど中間に位置する霊というものは半分神聖で半分人間的な性格をもちます。ですから、この霊の霊体の一つであるアストラル体を使って幽体離脱をしたり、また目に見えない次元との交信をしたり、夢を通して魂からのメッセージを受けるということもできるわけです。

肉体

 そして私たちの肉体、これがもう一方の極に位置する対になるものです。この肉体は私たちに与えられた実験室(ラボラトリー)です。これがなければ進化のためのワークを行うことができません。そして肉体は凝縮した物質でできています。進化のためのワークとは、この凝縮した物質を洗練し、さらに洗練して螺旋状に上昇していくことです。
 この三つ、魂と霊と肉体の関係を簡単にいえば、肉体は霊の衣であり、霊は魂の衣の役目を果たしています。そして肉体の洗練と霊の洗浄は二人三脚のようにともに進んでいかなければならないものです。

運命

 そしてそれ以外にも、私たちは原因と結果の法則によってこの運命というものが個人個人与えられています。これは私たちの人生のプログラムのようなものです。この運命の中に、カルマ(業)という私たちが払わなければならない借りと、ダルマ(法)という私たちが受け取るべきものがあります。
 この運命は私たちが生まれたときから左手に刻まれています。ですから左手の手相は変わりません。しかし右手の手相は、これはだいたい七年のサイクルで変わっていきます。そうすると、ここで運命はすでに記されています。しかし与えられた運命プラスある一定量の自由というものが与えられ、私たちの知識と行動によって、それを少し変える自由というものが与えられています。
 たとえば、ある人が運命として90才の寿命まで生きるとされていると仮定します。しかしそれだけの制限を変える自由というものが私たちの魂から与えられています。たとえば彼がこれから覚醒剤を常用するようになるとします。そうすると、その寿命を自分で縮めることになります。そうするとしばらくたつと右手の生命線が短くなっていることに気がつくでしょう。すなわち、自分の運命の中に何らかの変化が現れてきたということです。それは与えられた一定量の自由を悪用したということが原因です。しかし反対に自分の生活を改善し、また食物を洗練し、自分のサイキスを浄化していくということになれば、この寿命をさらに伸ばすという可能性も持っているわけです。
 ですから、このように運命を与えられているということは、何も100%その枠に私たちが制限されているという意味では決してないのです。ということは魂が私たちにある一定量の自由を与えてくれているからです。ですから一人一人がその自由をどのように生かすかによってずいぶん異なってきます。このわずかな可能性を最大限に生かすことによって、まったく運命を変えてしまうこともできます。しかし全然その自由を生かすということを知らなければ、運命が記された通りに流されて人生を終わるでしょう。

エゴ

 そして五番目に私たちに与えられるもの、これがエゴです。たいへん強いエネルギーを持つもので、一生を通じて私たちが起こす問題の根源がこれです。そしてまた、何度転生を繰り返しても問題となるものです。このエゴはある種のエネルギーです。しかしこれはネガティブな陰性のエネルギーです。しかし魂は全くポジティブな全く反対の陽性のエネルギーですから、これが反対の対になるわけです。そしてこの二つの力の媒体となるのが私たちのサイキス、心理または霊というものです。
 このように、エゴは魂に属するものではありません。ですから神聖な創造物ではありません。では誰が創造したのかというと、とりもなおさず私たち自身が創ったものです。そればかりではなく、大事に育て栄養を与え続けているのです。何回もの転生の間中、そうやって育ててきたエゴは、今となってはたいへん強大な力を持つようになっています。
 このエゴにはたくさんの種類があります。そしてこれらの各々のエゴが、われがちに自己主張をしているのが、実は私たちの状態です。そしてある時には、たくさんあるうちの一つのエゴが全体を支配することもあります。

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